2015年5月31日日曜日

2012年9月30日日曜日

絶好の住宅地は玉川電車各沿線

生活の元泉ともいふべき飲料水の関係

渡辺治右衛門

「公租公課の負担軽く、清涼の井水滾々として湧出し、道路下水完備し、気候亦中和の健康地」

住宅候補地調書

「飲料水」は、水質についてと水道か井戸かが記されている。水質は大半が良好とある。また、その入手方法としての水道か井戸かでは、井戸の場合は飲料水を得られる必要な深さが記されている。ちなみに、記述のあるものによれば、水道は今後の開設予定も含め十六か所(開設予定が四か所)、井戸が二五か所である。井戸の深さは最大六0間である。

2008年5月12日月曜日

公益企業の発達

都市人口の増大と住民の異質性の増加によって、小範囲の熟知の間柄における生活協同慣行や消費生活様式の斉一性は消失した。しかし反面において間接的ではあるが、より大きい範囲における生活協同の必要が痛感されてきた。すなわち水道・塵芥処理・電燈或は諸施設を通じての新しい協同である。
これらは国家あるいは地方公共団体の手で直営され、また民間の私企業としても起こったが、ここでは明治期を通じてみられた、自治体によって営まれたこれら企業の成立発展の過程を概観して、都市の消費生活における新しい変化をうかがってみたい。
市営上水道事業の成立と発達
都市生活における飲料水の問題は、もちろん明治時代に至って始めて生じたものではない。共同井戸・水売りなどの素朴な方法から、水道による引水方法まで、さまざまの工夫がすでに明治時代以前から行われてきた。そして江戸時代において公共的な上水道工事が成立していた事例として、次のようなものが知られている。
[飲料用水道]江戸・赤穂・高松・水戸・福山・中津・宇土・名古屋・鹿児島(以上公設)長崎・越ヶ浜・大津・久留里・神奈川(以上私設)
金沢・鳥取・指宿・五稜郭(以上主に官公用)
[飲料灌漑兼用]仙台・静岡・佐賀・米沢・富山・福井・豊橋・小田原(以上公設)
これらの中には、1889年(明治22年)以前に廃絶したものも多少あったが、だいたい、明治22年、市制町村制の実施とともに、市営または町営に移管された。しかし、以上はいずれも、旧式の上水道であって、欧米の施工法に倣ったいわゆる近代的な上水道ではなかった。こうした近代的な改良水道のはじめは、1877年(明治10年)に竣工した横浜水道とされている。これは当初県営で、資金は主として国庫の補助に仰いだが、1890年(明治23年)に、市営に移された。以後、同様の改良水道事業が、各地にあいついでおこった。その主なのを摘記すると、次のようになる。
函館水道 1889(明治22年)12月竣工 (明治32年区制施行)
長崎市水道 1891(明治24年)3月竣工
大阪市水道 1895(明治28年)10月竣工
広島市水道 1898(明治31年)8月竣工
東京市水道 1898(明治31年)12月竣工
岡山市水道 1905(明治38年)3月竣工
神戸市水道 1905(明治38年)7月竣工
下関市水道 1906(明治39年)3月竣工
これらの公企業としての上水道事業は、当初から地方自治体の力によってものではなく、これも中央政府の強力な指導と財政援助によるところであった。1890年(明治23年)2月の「水道条例」の発布によって、「水道は市町村其公費を以てするに非ざれば之を布設することを得ず」と規定され、水道は公益企業として、ほとんど、その当初から公営化された。そして、これは1889年(明治22年)の市町村制の実施と相関しているところであった。また、政府は、まず三府五港またはこれに準ずる都市に水道を布設する方針をとり、そのために多額の国庫補助を与えて、その助成をはかったのである。すなわちこれらの都市は、「国中人民の集合」するところであり、「外国との交通頻繁」の地であるから、政府の誘掖によって、水道改良事業を促進し、またこの区域に限って起業費の三分の一を国から補助する等の手段を講じたのである。1900年(明治33年)頃からは、伝染病予防・工業発展等のため、補助区域をかなり拡大しているが、ともかく、以上の市栄水道は、主としては、政府のこうした政策の結果を示すものであった。ただ、岡山市は多少事情を異にし、普通のしにおける近代水道の先駆として、特に注目されるところとなっている。
さらに、これはまた外国人技術者の指導によるところが大きい点も、注意すべきであろう。たとえば、横浜水道のパーマー、函館水道のクローフォルド、長崎水道のハード、大阪水道のパーマーとバルトン、東京水道のバルトン・クロース・パーマー・ギル等であって、初期の近代的水道の設計や施行は、ほとんど、これら外人雇技師の助言によって、とりはこばれたのである。とにかく、欧米に倣った近代的水道企業は、だいたい市町村制の確立以後、当初からその公企業として発足し、政府の強力な援助のもとに、まず、三府五港に布設され、ついで、一般の都市にも普及してゆくのであるが、その時期は目地40年代に入ってからであり、ひろく一般化するのは、むしろ大正期をむかえてからであった。これはほぼ都市人口の増大と相関していると、大まかにはとられることができよう。
もちろん、前途の公営水道の竣工までの経過は、けっして単純なものではなく、またその計画も市制実施以前に発端している。たとえば、横浜ではすでに1871年(明治4年)に水道会社が創設が計画されて、明治6年には一部に通水している。しかし、この旧式水道(後県営となる)は多くの欠陥があったので、明治16年に新式水道が企てられ、明治18年に着工し、1877(明治20年)に竣工したものでであり、また、大阪水道は明治13年に早くも水道計画が立てられ、さらに同19年にもその企画があった。しかし、両者とも着工にいたらず、ようやく明治23年に入って、計画が熟し、いろいろの曲折を経て、1895年(明治28年)竣工をみたのである。
1890(明治23年)の「水道条例」によって、水道企業はすべて公企業と規定される以前には、私企業としての水道計画も、多少はみられた。前述のように、横浜の明治4年の水道会社もその一例であるが、そんほか、明治21年の郡山水道会社、明治13年にはじまり、明治22年に具体化した新潟の有料水道計画、明治21年の東京水道会社の設立の出願、あるいは22年の神戸の水道会社の設立計画などがある。また秋田では、早くも明治7年に水道計画が立てられたが実現にいたらず、こえて明治17年及び20年に水道企業の出願があり、設計も進められたが、着工には及ばずして終わっている。
つまり、以上のように、明治20年前後から、私営の水道事業計画が各地の都市で企てられているのは、すでに貿易港や鉄道の要衛として早くも人口が激増した新興都市において、流行病の対策上も浄水の確保が問題になっていた事を示している。政府の水道対策は実はこうした情勢に対処して樹立された「水道布設の目的を一定する件」では、水道公営の原則を提唱しているが、それは地方行政官庁の直営を意味するにすぎなかった。それ故、同20年11月には「市街私設水道条例」をも閣議に提出し、水道の私営企業を一方では認めようとしているのである。市町村制の発布によって、近代的地方自治団体が成立するとともに、公営水道の企業主体は、それに確定した。明治23年の「水道条例」の公布は、その結果にほかならない。
つまり、旧式の公営的上水道はすでに江戸時代において、一部の都市の中にみられ、また明治初年においても、局地的には私営の水道企業は早くも見られた。しかし、初期の私営水道はいずれも永続せず、しかも、それはほとんど公設的水道とさしてかわらず、いわば営利企業としての色彩は一般に稀薄であった。明治20年前後には、陸続と私営水道企業の計画があらわれたが、そこにも公共的な性格がつよく、また、大部分は竣工前に、公営水道に限定する政策の公布をみている。明治の水道事業が、ほとんど当初から、公益事業として発達し、各市町村を企業主体として展開している事情は、注目すべき点であろう。これは日本におけるこうした種類の営利企業の伝統が浅く、中央政府の指導と助長策によってのみ発達しえた故であろう。
水道事業はもっても早く公益事業として確立したが、これらも市町村制の成立を契機とし、日清・日露両役の間にようやく本格的に発達し、されに一般都市への普及は明治末年から大正期にかけてであったことを知るのである。そして市民の居住地区はいつも少しずつ給水地域よりもさきに拡がっており、また共用の水道栓が多くて十分であったとはいえないが、便所に近い多すぎた共同井戸や、通り庭などに設けられた井戸のうち、不良のものから次第に整備されて、これは他の新施設と結びついて、市民の住生活に新しい条件を広汎に打ち出して行った。
市営下水道事業
しんどいので省略

仙台市上水道

1、沿革
仙台市は慶長15年12月藩祖伊達正宗城を青葉に築き治府を創せし以来、奥羽樞要の大都会とし殷振を極めたりしが、維新以降は殊に諸官公衛、官公私立学校設立され諸会社、工場等の設置また年を遂うて多きを加へ来往するものいよいよ増加し市勢大に発展せり、然るに市内通水に乏しく廣瀬の清流ありといえどもその流域ほとんど市外に在り、しかも県崖数丈の下を流るるを以て、わずかもその効なかく僅かに井水を以て飲料及び防火の用に供し来るも、元来当市は地層の関係上井水の湧出量少なく、往々臭気を帯び乾燥の季に際しては枯渇して飲料すら尚不足を告げ、一朝火災あるも消防の具其用をなさざること少なからず、ただ僅かに元禄、承應の頃開鑿せられたる四谷堰ありて、郡部灌漑の余水を市中に通水すといえども、是亦水路の崩壊頻々として殆ど其用をなさず、明治22年市勢実施せらるるや水利を講じて上水の欠乏を補い、下水の排除を完ふせしめんとし市内測量に着手し明治26年3月其完成を見たるを以て、同年7月内務省衛生局傭英人「バルトン」に調査を依託し其報告に基き同30年12月工学博士中島鋭治を顧問に工学士西尾虎太郎を設計主任に嘱託して上下水道設計に着手し同31年12月両工事の設計完了を告ぐ、